未来を知る
仏教でも未来を予測する能力は生きるのに必要な能力とされている。
しかし俗世間の求めているものとは違うようだ。
俗世間が欲しい予測能力
世間が評価する予測能力は経済的なもの、つまり儲かるのかが大事。
1欲の感情
『もっと欲しい』と将来に目を光らせる。
2暗い感情
あんなことになったら嫌だ、なんとか報復してやろう、現実から逃れたい、などの感情から予測に頼る。
3怠けの感情
メリットがあるならやりたいけどないならやりたくないという怠けも世間の予測では大事にされている。成功する保証があれば努力するなど、自分の行動、判断を人任せにするために予測したい。
このように人間は未来を正しく予知できれば幸せになれる、と思っているがこんなことをベースにして未来予測を必死にしても確かに幸せも成長もないのかもしれない。
変化は楽しくプラスなものと捉える
現代の社会は予測能力ではなく、予測できないから発達した。
地震や津波などがいつくるかわからないから、より頑丈な建物の技術が発達したなどだろうか。
知らないほうがワクワクして幸福である。一か八かわからないから挑戦する。明日はこうならないかな、ではなくどうなるのかな?と思い楽しむ。失敗しても能力がつくので自分が向上する。
期待は事実ではなく妄想で悪影響しかないので、期待はせず変化を楽しむ機会を手放さないようにと教える。
無常は客観的な事実だが、変化するから努力が実るので苦しいものではないとしている。
全てのものが全く変化のない世界こそまさに地獄で、そもそも変化しないので存在しないようだ。なので例えば歳をとってきたと悩むのではなく、歳をとるから楽しく生きられているということだろうか。確かに永遠の無は地獄以外の何者でもないだろう。歳を取りたくない、あの人に嫌われたくない(変化したくない)は間違えているとなんとなく納得できる。
仏教の予測能力
僕も色々本を読んでいる時に、全てが変わっていくなら頑張る意味もないと思っていたが、全てが客観的には評価できない(無価値である)ことと、頑張る意味がないことは違うようだ。
諸行無常の行(原因によって組み立てられている現象)で表すように
全ての現象は原因によって一時的に組み立てられていると考える。
努力という働きかけは変化の”原因”の一つになる力。
つまり川が氾濫したけど無常だから諦める、ではなく、ダムを作り水の量をコントロールする、川の流れる方向を変えて周りに被害が出ないようにすることはできるということか。
これは世の中の流れを止めたわけでもないし無常に逆らったわけでもない。
全てのものには原因があるので現実から因果関係を学び続け、今この瞬間の自分の行動を改良しつづけることが唯一できることだということか。
確かにそう考えると全ては原因があって結果があるのだから、感情という妄想に囚われていては幸せになれないのは当たり前だと思える。起こる出来事(変化)の全ての原因を計算することは人間には難しいが、わかる範囲の現象を良い方向に変化させる原因をつくる(努力)ことが唯一必要なことだという感じで今ところは理解した。
現実を観察する